母の遺書

岡田斗司夫さんの「遺書」を読みました。

遺言

遺言


内容としては、岡田氏の過去、アニメ制作部分をメインに、
今まで語ったことがなく、おそらく墓場まで持っていこうと
思っていたことを遺書して書いている感じです。

私は岡田氏をアニメ経由で好きになったわけではないので
正直、エヴァとか、ときメモ、とか言われてもわかんないんですが・・

アニメを制作するときのテーマとは何か?に関して
激しく脱線されながら記載されています。

アニメ好きの方にはかなり面白い作品だと思います。

本作と関係ないのですが、遺書という題名から
昔実家で母親の遺書を引き出しで見つけたことを
思い出しました。
今思い出しても若干心が締め付けられる感じがします。
当時は遺書っていうものは自殺する人が書くものだと
思っていたので、そらもうものすごくショックだったんですね。
さっきも一応ウィキで調べたら、死ぬのが確実な人が書く・・
とあったんで、まあ齢60歳超えている人なんで、遺言書的な
意味合いで捉えたいとおもいます。
発見したのは数年以上前ですが。

遺書の中身は別に見てないです。
母親にも言ってはないです。

ただ感じたことは、いつも考えの浅い(ごめん)母でも
遺書を書くほど辛い思いをしているんだなということ。
そうだよな、こんな日々だもんな。。ということでした。

その時なんだか思ったことは、母親に辛くあたっている人間や
母親を見下して接している他人に対して、
母はいつも笑ってその日暮らしみたいな生活で
将来を見据えて計画的な人生を歩むことはできない人だけれど
こんな風に死をも考えるほど悩んでいるんだよっ
ってことでした。

岡田氏の本書に、宮崎勤幼児殺害事件についてのコメントが
ありました。
彼は自分たちオタクの代表だと。ロリコンおたくが
行動するかしないかの紙一重であり、彼は自分たちと
何も変わらないのではないかと。

この部分に私自身は異論があります。
以前重松清氏の「エイジ」を読んだとき。

エイジ (新潮文庫)

エイジ (新潮文庫)

主人公は当時14歳の犯罪で話題になった犯罪者と
自分との違いがないのではないかと考えます。しかし
実際に手を染めることと、考えるだけで行動に至らないことには
大きな違いがあると感じ、自分は「彼」と違う、という
結論に至ります。
私はこの部分を大きく支持したいと思いました。
実際に行動してしまうのと脳内反芻は違う、と。
今思えば小説の存在自体も、同じ14歳にそのように
感じさせることで安心感を持ってもらいたいがために書かれたのかもしれません。

ただ、今再度思いをめぐらしたとき、思考と行動は紙一重であり、
いつでもすぐに誰でも死や殺という行動が出来てしまうのかも
しれないとも思います。
その時の激しい衝動が伴った場合。激しい落ち込み。
激しい怒り。激しい絶望感。
実は世の中の人みんながものすごくぎりぎりのところで
生きていて、理性で守られていて、社会通念で持ちこたえていて
一般常識でせき止めていて、
でも本当は実はすごく簡単に行動出来てしまうのかもしれない。

ただただ

そんなでも、私はその紙一重の「一枚」を頼りたいと思います。
一欠片の理性、ペラペラの愛情、
「今死んだらだめだ」
「今動いてはだめだ」
ただそれだけが、実際に行動してしまうことでの、
私と周りの不幸をぎりぎりでせき止めてくれるかもしれない。


そんな風に全く考えない人もいるとは思うけど
そんな風に考えている今の私がいるから
ここに少し記したいと思いました。