家族は愛情ではなく役割

最近内田樹氏の本をよく読んでいる。
面白いです。説教じみているところと、全うなことを言っている(と感じる)ところが
面白いと思います。
日本の将来はあーだこーだ、どうしろこうしろドンチャン言っている人が多い中
「何言ってんだよ、実際こうだろ、これでいいだろ」みたいに
一喝してくれるようなところがあります。

ここ何冊か読んで、「そうかもしれない」と思った視点が、
「家庭とは愛情で動く場所ではなく個々の役割を全うするところである」
という視点です。
家庭では「愛情」という感情だけで、いつも何時でも構成員が動ける場所ではない。
愛情が行動の元にならないときもありうる。
その時にあるのは、個々人が家族の構成員であり、その役割を担っているという
責任感である。
私は母であり、妻であり、子どもを育てる役割を持ち、保育園にお迎えにいき
労働契約のために従業員として労働をし、、。
まあ単語だけ並べたら淡泊な感じがしますけど、実は実際はそんな淡泊でもない。
全ての行動のモチベーションの元を「夫への愛情」「子どもへの愛情」
「仕事への愛情」に求めてしまうと必ず苦しくなる時が来る。
だって、愛情ないときあるしね!
そんな時、自分のこの小さな組織での役割を思い出し、全うすることを考えると
納得がいき、まあやるか、という気持ちになるものです。

内田氏の書籍に幼児虐待のテーマが出ていました。

「おじさん」的思考 (角川文庫)

「おじさん」的思考 (角川文庫)

なぜ虐待が起こるのか、多くの人は、愛情の欠如したその親の親に原因を求めたり
解決策を行政のフォローやその他親張本人の外部の人間に求めたりしますが、
氏はそこで異論を唱えます。
親の親がどうであろうと、愛情がどうであろうと、一人(もしくは複数の)子どもを
産み落とした時点で、親自身にその子どもを健やかに育てる責任があるであろう、と。
そして虐待に走ってしまうのは、その責任感の欠如であると言っています。
どんな風に育てたらいいかのロールモデルがなかったとしても、
子どもを育てるという責任があるのは親であり、それを排除して原因を他に
求めるのは間違っているのでは説いています。

実際苦しい思いをしている親の方には手厳しいかもしれませんが
確かに本当にそれだけなのかもしれません。

当の私だって自分の好きなことやりたいよ、好きなとこ遊びに出かけたいよ、と
思いますが、親になってしまったんですものね、私。
子どもを育てる役割があります。

愛情がないとか言うのってタブーな感じにとられてしまう気がしますが
常に100%同じ感情を持ち合わせている人間というのもなかなか稀でしょう。

粛々と自分の役割を全うするというのは大変大人な行動であり、また
ある意味で相手を尊重する違った括りでの大きな「愛情」と言えるのかもしれません。